― 新しい意識の共同体のために―
近見冨美子
自分を知りたければ
世界へ目をむけてごらん
世界を知りたければ
自分自身の奥底へ目をむけることだ
ルドルフ・シュタイナー
上記のシュタイナーの言葉を最初に目にしたのはいつだったでしょうか?この言葉にいつの頃からか
私の中に漠然とあったなぞを意識したのと同時に、その謎解きを示されたような思いを抱いたことを覚
えています。私のうちにあったなぞとはまさに「私」と「世界」、或いは個人と集団との関係性でした。
「戦争を知らない」世代のひとりとして静かな地方都市で成長した私が、東京の大学に入学してほどな
く遭遇した大学紛争。熱気に満ちた学内集会での大学側(教授)と活動家の学生たちの激しいやり取り
に息を呑んだこと。また同じ時期に経験した反戦デモの興奮、それに続く機動隊との対面の緊張そして
混乱-この二つの出来事が落とした影、そのような闘い方への疑問。それからまもなく、急に訪れた紛争
の終わりと静けさを取り戻したキャンパスに消しようのない違和感を覚えたこと。
学生生活の入り口で遭遇した数々の出来事は、「一個人(若者)がどのように混沌として巨大な社会と
向き合えばいいのか?」という問いに収斂されます。私の大学生活のライトモチーフといえるこの問いは
その後この社会のどこに私の場所があるのか、どのようにそれを見出せるのか、何をして生きてゆけば
いいのか(何をしたいのか)、そしてこの世界での私の使命は?と変容していきました。
もう少し時をさかのぼると、4歳から18歳まで14年間を過ごした町の中学校の図書室の片隅で小説を読
んでいる私が記憶の中に浮かびます。「自由への道」というタイトルに引かれて手に取ったジャン・ポー
ル・サルトルの著書。その長い本編ではなく、巻末につけくわえられていた短い物語が第3・7年期の入り
口に立っていた私に深い印象を残したのです。物語の舞台は第2次大戦中のドイツ軍の捕虜収容所。
収容されていたフランス人捕虜たちに監視が告げています。お前たちの一人でも脱走すれば残り全員が処
罰を受けると。物語の語り手は、それでも脱走を企てている捕虜の一人の動向を、疑いと共感とともに描
写していきます。残る捕虜のことなど考えず、ただ一心に、自分ひとりのために脱走を企て、ついには脱
走して行った仲間のためらいのない行為への賛嘆。同時に残された寂しさ、悔いそして迷い。それと同時
に残された捕虜の運命をかえりみない利己的な行動への反発。語り手の相反する感情を共有しながらも、
「私だったらどうしただろう?」という答えられない問いを自覚したときの軽い衝撃。ここが個人と集団
(社会)というテーマとの意識的な出会いだったのでしょうか?
学生時代の問いの答えが見つからないまま、卒業を迎えても就職という選択が選べずにいた私が、乏し
い情報と資金にもかかわらず、イギリスへ行く決心をしたのは友人の死の痛手がわずかに和らいだ頃でし
た。 受験勉強を助けていた友人とその弟との間にどんな行き違いがあったのでしょう?心のバランスが崩
れ、狂気の世界におちいった彼の弟-19歳の若者の手で、その兄の輝かしい未来が、貴重な命の火が一瞬
のうちに消し去られたのです。この悲劇の背後に、迫り来る社会の狂気を感じて身震いすると共に、人の
いのちの儚さを思い知らされた21歳の夏の出来事でした。それから、2年後、私はイギリスへ旅立ちまし
た。この痛ましい出来事が残した「限りある生を人はー私はどのように生きるの?」という問いに背中を
押されるようにして。
こうして飛び込んだヨーロッパ。イギリスそしてフランスでの7年間は、自分自身の内を見る成熟さはな
く、自分自身の外に世界を見続けた時でした。際限なく豊かで、ヴァリエーションに富んだ世界や人々と
の出逢いばかりでなく、過酷な、時には残酷な運命を生きる人々との出逢いをも通して、「個人と他者そ
して世界」のなぞは深まるばかりでした。上に記したシュタイナーの言葉は、このなぞにまったく新しい
視点を与えてくれたのですが、それには30代後半のもうひとつの「世界と私」との出逢いが必要でした。
私の第2ムーンノウド(37歳前後)はチェルノヴィル原発事故、そして末娘の誕生の時期と重なります。
新しい生命を宿す母親として、命を脅かすすべての可能性に敏感になるのは当然ですが、その頃、九州中
部の山中で有機農場を営んでいた私は農業者としても、この地球規模の惨事を非常に重く受けとめました。
時を同じくして谷向こうの山に、水源の近くに産業廃棄物埋め立て場建設の話が持ち上がりました。身近
に起こった環境汚染をもたらす計画への反対運動の取り組みから、熱帯雨林保護運動へ、。農業を大切に
という想いと農業者の直面する現実への疑問からアグリビジネス、そして経済問題へ。そして長女の小学
校入学を前に、オルタナティヴな教育活動へとネットワークはどこまでも広がり、ひとの環はつながって
ゆきました。こうして始まった市民活動は1990年4月世界中で催された地球の日(EarthDay)を祝う活動
へと収斂されていきました。
1970年ニューヨークで始まった第1回「地球の日」から20年たった90年には、環境問題に人の生き方と、
世界のあり方とが直結していることが世界中の多くの人々に意識されるようになっていました。それは同
時にこの20年間に地球環境が著しく悪化していった事実があります。地方都市の「地球の日」は、私たちが
作り出した身近な環境から世界の現状までを直視して変えていこう、という意志の表現でもあったと思い
ます。
自然環境を大事にした社会や生き方を望んでいる多くの人々や組織の協力を得て開催した「地球の日」
展。パネル展や講演会、交流会など様々な活動の過程で多くの人々や組織との出会いがありました。農業
を希望しても土地が手に入りにくい制度や経験も体力もない若者が農業ではとうてい生活できない現実。
原子力発電を推進する電力会社に勤務しているけれど、原発に反対して苦慮している人との出会いなど多
くを考えさせられました。その一方、それまで見えなかったことがらも見せてくれました。反対運動はで
きても、それに変わるヴィジョン、展望のなさ、具体策の欠落、何よりも私たちひとりひとりの生きる姿
勢や立脚点の不確かさに気づかされたのです。そして世界の全体性に寄与するためには、個人個人の内的
な全体性が、スピリチュァルな視点が必要なのだ、という気づきは私にとって決定的でした。再び探求の
道に立たされていました。
けれど40代の探求は的がしぼられていて、放った矢―私の想いはまっすぐアントロポソフィーの核心
へ届いたような感があります。再び戻ったイギリスで勤務した学校に隣接していたキャンプヒル共同体。
その住民たちとの交流を通じて健常者と知的障害者との共同作業、共同生活の実際を経験することができ
ました。シュタイナー学校へ通う子供たちの様子からシュタイナー教育のすばらしさを確認すると同時に、
現在の社会環境の中での実践の困難についても考えさせられました。突然の病はアントロポソフィー医学
と療養所の体験を経て、シュタイナーの著書を真剣に読み始めるきっかけをもたらし、日本からの10代の
子供たちの教育に従事する日々で、心のケアの必要性に直面、カウンセリングを学ぶ決意へ、とアントロ
ポソフィーの道が確実に拓けていきました。そうして出逢ったバイオグラフィーワークの学びにアントロ
ポソフィーの実践を経験した時、私の探求の旅の終わりに近づいたことを感じました。40代の終わりを迎
えていました。
そのバイオグラフィーの学びを深めていた頃だったと思います。最初に記したシュタイナーの言葉を、
いくつもの講義の中で目にするうちに、気づいたのです。自分を見るだけでは自分を知ることはできない。
自分を知るには自分の周囲の人々や世界を理解することが必要なのだと。そして、今日の世界の混沌や紛
糾の原因を知りたければ、それはすべて自分の内にあるのだと。一個人として、「私」が成長すれば、「私」
が出会う「世界」も「関係性」も変容するのだということは、それまでの人生経験からあきらかでした。
「世界と私」というなぞを解き明かしてくれた逆説的な言葉の真実が、私を暖かく充たしたひとときでした。
現在のスピリチァルな道の探求や成長は、人里はなれた洞窟や特別な場所でおこなわれるのではなく日
常の経験がもたらす課題にとりくむ中でもたらされること。新しい世界や生き方は、偉大なリーダーやグ
ル(導師)に与えられるのではなく私たちひとりひとりの自我の力、意識の目ざめから創造されてゆくこと。
日々の出来事や縁(カルマ)あって出会う人と人の交流から生み出される名づけようのない力が私たちを、
そして世界を新しい時代へとつれていくのだ、というめくるめく発見に促されて、バイオグラフィーワー
クをはじめて日本に紹介したのは2000年の秋でした。それからの年月「自分を知ること」と「世界を知る
こと」とを両翼とするバイオグラフィーワークの学びを、多くの方がたと共有することができたことは感
謝にたえません。2008年1月には、バイオグラフィーワーカーたちのサポートとワークの充実を目的とす
る「バイオグラフィーワーカーズ・ジュピター」が発足しました。さらに2012年には、養成コースの学びの
充実と健全な発展を目的に「一般社団法人バイオグラフィーワーク・ジャパン」が創設されました。バイ
オグラフィーワーカーひとりひとりの経験と探求の成果を結集させたこれらの組織の活動が、バイオグラ
フィーワークの学びを広く社会へ紹介する助けになると同時に、新しい意識の共同体への探求の支えとな
ることを願っています。
「自分を知りたければ世界へ目をむけてごらん。 世界を知りたければ、自分自身の奥底へ目を向けるこ
とだ」 というシュタイナーの言葉は、私たちひとりひとりが、「私」と 「世界」との関係性の神秘に目ざめる
ことを呼びかけています。バイオグラフィーワークの核心にあるもの、自らのバイオグラフィー「生の軌跡」
を深く学ぶうちに見えてくるもの、もこの「私」と「周囲の人々や世界」との関係性への目ざめなのです。グ
ループとの共有のプロセスは他者〔世界〕への理解への扉を開いてくれるとともに、新たな自己認識をも
たらしてくれます。シュタイナーの提示した様々なエクササイズ、そしてアートの創造性、さらにグルー
プとのダイアローグが、そのプロセスに洞察の光を投げかけてくれます。このようにして目覚めた人たち
が自らの自我の可能性を生きること、それが未来を担う子供たちのガーディアンであるおとなたちに、今
求められているのではないでしょうか?幾層にも複雑に交錯する人と人の関係性、そして現代社会に、個
人と世界への新しい意識をもたらすために。そのような意識が生み出す新しい精神の共同体(スピリチュ
ァル・コミュニティ)。そのセンターで、創造される未知の限りない可能性のために。
バイオグラフィーワーク・ジャパン 代表理事近見富美子
1949年福岡県生まれ、英国在住。20代7年間を英国と南仏で過ごす。
帰国後英語教師を経て九州で有機農場を始める。40代に再渡英、人智学に根ざすカウンセリングと
バイオグラフィーワークを学ぶ。個人と社会の変容(成長)を願って、英国と日本のほか
フランス、台湾、インド各地でバイオグラフィーワークを紹介。世界養成コースリーダー
フォーラム創立メンバー。旅、農業、人智学、そして3人の子と8人の孫に多くを学ぶ